Zanmemo

縁切寺と2014年頃のインターネット


無縁・公界・楽』を読んでていたら、「縁切寺」と「無縁」について書かれていて結構面白かった。

中世頃の日本では、離婚権が女性には無かったため、暴力的な男性から逃れるためには、そういった「縁切寺」と呼ばれるところに行くしかなかったとかかれている。


詳細はどうでもよくて、必要なのは「縁切寺」というのは、そもそも「縁が切れないこと(=繋がりを執拗に求めてくること)」に発端があるというところが、多分ポイントなんだと思う。妻を追ってくる男のことを想像すればわかる。

それはインターネットにも同じことが言えるよなーとか考えたりしていた。過去のことを掘り起こされたり、あるいは、執拗に「ソーシャル」を求めてくる中で、縁切寺みたいなのが必要なのかもしれないなーと思うと、それがMixiであったり、あるいはFacebookだったりするんだろう。

とはいえ、MixiやFacebookは囲いこみつつ、内部で繋がり合わせようとしているという点では、ある意味で「縁」が違うだけで(この本だと「公界」と呼ばれるものだと思う)、いわゆる「縁切」とは違う。


いま、他の先進国ではインターネットにおいて「忘れられる権利」という話もされているけれど、そういうものに近いものかもしれない。


たぶん、本来的にそういう「縁切寺」的なインターネットも必要なのだと思うが、人々は寂しがり屋なので、縁を切ったら切ったで、アマテラスのように、岩陰から出てきてしまうわけで、そう簡単にもいかないよなーとか考えたりしていた。(その一つの解答としてPathがあるんだろうけど)