Zanmemo

by esehara

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いい言語が必ずしも好きな言語であるとは限らない


考えてみれば、前提として「いい言語」が「好きな言語」みたいな風潮があるけれども、決してそういうことでない感じもする。

好きな言語

良い言語


一つの仮説としては、良い言語と思わせる部分としては一貫性があるということに尽きると思う。例えばRubyは基本的にはオブジェクト指向を崩そうとしない部分がある。それは同じようなスクリプト言語であるところのPythonと比較すればわかりやすい。Pythonの場合、どうしても突貫的なオブジェクト指向という側面は避けられない。


場合によっては、一貫性があることと簡潔であるかということはまた別問題のような気がする。本来、一貫性があるということは、ルールができるだけ一意に決まるため、簡潔になる側面がある筈なのだが、どうもそうではない部分も多い気がする。


Random Pickup

むき出しのテクノロジーと隠蔽されたテクノロジーについて考えてみる


なんでそういう区分をするのかというと、下の記事を見たからだ。

一ヶ月、Rubyを本気で独学した結果(文系向け) - 30ruby記」を読んでいて、自分のスタンスと似ているところがあるなあと思いつつも、何か違うなあという違和感も同時にあってなかなか面白いなあと思いつつある。それは多分、僕が二年、三年目くらいにプログラミングを仕事にしてきた部分での差異でもあって、その差異が邪魔しているんだろうなと思ったりした。

同意する部分

似ている部分としては、割とプログラミングをやろうとしたきっかけというのが、「あ、これからはプログラミングだな」という、割とそういうざっくりとした思いだったというのがあって、そういう意味では、「これが出来れば、現代社会における一割くらいのモノは理解できるのではないか」みたいな、そういうスタンスだったのは否定は出来ないし、そういうスタンスとして始めた自分としては、全体の違和感というのは、僕にとっては「なるほどな」と思ったりする。

あともう一つとしては、自分は学んだりすると、妙にスレて、斜め上からの視点になったりするけれど、本当はそういう風に構えるのはよくなくて、本当はこれくらい「ああ、凄い……凄いぞ……」と思えるスタンスというのは重要だなあ、と思ったりもする。

違和感の部分

たぶんこの熱量の違いみたいなものは、別にRubyじゃなくてもよく、極端なことを言えば、HSPとか、それこそRPGツクールでもいいと思う部分にある気がしている。これは馬鹿にしているかもしれないけれど、でも僕はRPGツクールは、現状で最も成功したゲームフレームワークだと思っている。そして、RPGツクールで作ったゲームを、少なくともインディーズでお小遣いを稼ぐ程度のものとして出している人たちも知っている。

で、それをテクノロジーと考えるか否かというのは、ぶっちゃけどうでもよい。ただ、「これを使えば、簡単に製品が作れるぜ~」という意味での、「魔法を手にした自分への万能感」と、それを「テクノロジーを学べ、お前ら」という部分での差異というのは、割と違っていて、もちろんある種のTechというのが、気軽にモノを作れる為にあることはあるんだけど、ただ、それを「利用すること」と、「その原理を利用すること」というのは、ぶっちゃげ違う部分にあるよなあ、とかそういうところがモニョる部分かもしれない。


労働時間8時間の他に、自分を磨くための3時間を余計に見積もっておきなさい

Crean Coder』を読んでいたら、「労働時間8時間の他に、自分を磨くための3時間を余計に見積もっておきなさい」と書いてあって、なるほどなと思う。一週間にすると、40時間のうち、20時間は自分のための時間を持っているか、ということらしい。


ランダムに挙がってくると、その文章を手直しするので良いかもしれない


ブログだと、恰もその文章を確定したかのように書かなければいけないけれど、こういう風にランダムに挙がってきて、さらに「そうだなー、ここはもうちょっと書きようがあるんじゃないかな」と言う風に書き足していくと、割と段々と育てている感じがしてよい。盆栽というか、育てゲーみたいな印象になる。

だから、最初の一行だけ書いておいて、あとでランダムに浮かび上がってくるものをちょこちょこと継ぎ足して、気が向いたらブログにし直す、みたいな運用はありかもしれない(こういう感じで)。


感情をすぐに吐き出してしまうこと

俺なんかもそうだけれど、感情をすぐに吐き出してしまうのは良くない気がした。感情がすぐに出てしまうインターネットにおいて、割と溜めておいて、あとで吐き出すみたいなことが重要なんじゃないかと思ったりした。つまり遅延性だ。

確かに、感情は溜めておくと良くないという部分はあるのだけれど、とはいえその感情を


「できない人」と技術について

ある技術において、「できない人」が「できるようになる」ということが目指されているのは間違いないと思う一方で、では現実的に「できない人」のために、何かしようとすると、それを貪欲に吸収するのは「できる人」になるという矛盾がありそう。この考え方自体は非常にナイーヴなものではあるし、「できる人」がよりできるようになるということによって、潜在的に「できなかった人」も底上げされるという側面があることは否定できない。

たぶん、教育的には「できない人」という意味はあまり重要ではなくて、如何にしてモチベーションを上げるのか、ということのほうが問題であることは推測できて、もちろんモチベーションがあればなんとかなるというのは、それはそれで嘘だけれど、しかしそもそもモチベーションが無いところに、学習を持ち込んだりしても意味がない。

とすると、本来ならばそこに「モチベーション」という意味があるわけで、そういう意味で「ゲーミニフィケーション」というのがあるような気がするんだけど(ゲームは「モチベーションを如何にして煽るか」という観点が含まれている)、その辺についてはどういう風に考えられているのか、多少なりとも気になる次第だ。


つらいときに言いたい言葉を選ぶ

みたいに言うのも、自分に非が無いような口ぶりになるし、だからといって

といっちゃうと、自分は本当はダメになる気がするし、今頑張っていることに関して嘘をついていて真摯ではない気がするので(こういうところで変に生真面目になったりする……)、中間点として「生きるのが難しい」という言葉を選ぶようになった。


参加者前提が、大規模になると必然的に「消費者」と「運営者」に分かれてしまうという現象

厳密に考えないと正直難しいかもしれないけれど、例えばコミックマーケットにしろ、あるいはインターネットにしろ、オープンソースにしろ、あと身じかなところだとKickStarterがある。

その当初は単純なる「善意の参加者」を中心とした相互運用的なものであるように感じるのだけれど、だんだんとそれらが大規模化するにしたがって「消費者」と「運用者」に分かれてしまうのは何だろうなーと考えている。

たぶん、この現象を一番明確に現しやすいのはフリーライダーというのが、言葉としては正しい気がするんだが、フリーライダーというと問題の焦点がズレていて、いわば参加者としてのコミットレイアーが違う、といったほうが正しいだろう。