Zanmemo

by esehara

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いい言語が必ずしも好きな言語であるとは限らない


考えてみれば、前提として「いい言語」が「好きな言語」みたいな風潮があるけれども、決してそういうことでない感じもする。

好きな言語

良い言語


一つの仮説としては、良い言語と思わせる部分としては一貫性があるということに尽きると思う。例えばRubyは基本的にはオブジェクト指向を崩そうとしない部分がある。それは同じようなスクリプト言語であるところのPythonと比較すればわかりやすい。Pythonの場合、どうしても突貫的なオブジェクト指向という側面は避けられない。


場合によっては、一貫性があることと簡潔であるかということはまた別問題のような気がする。本来、一貫性があるということは、ルールができるだけ一意に決まるため、簡潔になる側面がある筈なのだが、どうもそうではない部分も多い気がする。


Random Pickup

受動的攻撃性

この言葉を知ったのは割と前なんだけど、自分に当てはまるので、あまりにもドキッとしてしまい、以降結構気をつけている。Wikipediaの項目を見ると下のような感じである。

いやなこと、やりたくないことに対して、「いやだ」「やりたくない」と言うかわりに、わざとゆっくりやったり、忘れたふりをしたり、いわば後ろに引くことで反抗する。不機嫌な気持ちになると受け身的なやりかたで攻撃感情を表現し、あてつけや抵抗を示すために、対人関係に広く支障をきたしてしまう


自己診断的に

要するにはっきりと「否定」とか「嫌悪」を表明するのが苦手で、それ故に、それを「曲がりくねった形」で表明してしまう。


縁切寺と2014年頃のインターネット


無縁・公界・楽』を読んでていたら、「縁切寺」と「無縁」について書かれていて結構面白かった。

中世頃の日本では、離婚権が女性には無かったため、暴力的な男性から逃れるためには、そういった「縁切寺」と呼ばれるところに行くしかなかったとかかれている。


詳細はどうでもよくて、必要なのは「縁切寺」というのは、そもそも「縁が切れないこと(=繋がりを執拗に求めてくること)」に発端があるというところが、多分ポイントなんだと思う。妻を追ってくる男のことを想像すればわかる。

それはインターネットにも同じことが言えるよなーとか考えたりしていた。過去のことを掘り起こされたり、あるいは、執拗に「ソーシャル」を求めてくる中で、縁切寺みたいなのが必要なのかもしれないなーと思うと、それがMixiであったり、あるいはFacebookだったりするんだろう。

とはいえ、MixiやFacebookは囲いこみつつ、内部で繋がり合わせようとしているという点では、ある意味で「縁」が違うだけで(この本だと「公界」と呼ばれるものだと思う)、いわゆる「縁切」とは違う。


いま、他の先進国ではインターネットにおいて「忘れられる権利」という話もされているけれど、そういうものに近いものかもしれない。


たぶん、本来的にそういう「縁切寺」的なインターネットも必要なのだと思うが、人々は寂しがり屋なので、縁を切ったら切ったで、アマテラスのように、岩陰から出てきてしまうわけで、そう簡単にもいかないよなーとか考えたりしていた。(その一つの解答としてPathがあるんだろうけど)


未来予測について

1999年に発行されたと思わしき本である『ユーザビリティエンジニアリング言論』を読んでいて、面白いなと思ったのは、その中に「将来的にはコンピューターはこういう風になるだろう」と予言した部分だ。そこには、プログラミング言語は「ビジュアル言語」になると言われているけれど、そういう風にはならなかった。

未来予測を振り返るのが好きなのは、自分が重箱の隅をいじりたくなるような、「いじわるな性格」であることを認めつつも、ある部分において、僕達がこうなるだろうという「直感性」の問題と、実際に必要であったもののズレを如実に感じるからだ。「ビジュアル言語になる」という部分にしても、恐らく直感的にはそうなるのが面白いんだろうなと思うのだけれど、しかし、プログラムを組むということと、図形を描くということには、確かなズレがある。

例えば当時の「ヴァーチャルリアリティ」の本を見て、例えばチャットアプリにおける仮想空間であったりとか、あるいはヴァーチャル美術館とか、そういうアイデアが沢山出てきていて、そういう「身体性」が重視されるだろう、と言われていたけれど、現状として支配し続けているのは、どちらかといえば「テキストベース」な、もう少し言うと「身体」とは別の離れたものであることは間違いない。

そのズレはとても面白くて、今でも自分の課題の一部である。

蛇足

ちょっとだけ補足すると、"Oculus Rift"は割と身体性というか「拡張現実」に近いものではないか、とは思えるんだけど、では実際のところどうなのか、みたいなところに関しては自信が無い感じだ。


「できない人」と技術について

ある技術において、「できない人」が「できるようになる」ということが目指されているのは間違いないと思う一方で、では現実的に「できない人」のために、何かしようとすると、それを貪欲に吸収するのは「できる人」になるという矛盾がありそう。この考え方自体は非常にナイーヴなものではあるし、「できる人」がよりできるようになるということによって、潜在的に「できなかった人」も底上げされるという側面があることは否定できない。

たぶん、教育的には「できない人」という意味はあまり重要ではなくて、如何にしてモチベーションを上げるのか、ということのほうが問題であることは推測できて、もちろんモチベーションがあればなんとかなるというのは、それはそれで嘘だけれど、しかしそもそもモチベーションが無いところに、学習を持ち込んだりしても意味がない。

とすると、本来ならばそこに「モチベーション」という意味があるわけで、そういう意味で「ゲーミニフィケーション」というのがあるような気がするんだけど(ゲームは「モチベーションを如何にして煽るか」という観点が含まれている)、その辺についてはどういう風に考えられているのか、多少なりとも気になる次第だ。


機能が慎ましくあると使いたくなる

たぶん、「機能があればいい」ということではないんだろうけど、一方で、例えばMarkdownがリアルタイムでrenderされるとつい嬉しくなってこんなのとかこんなの修飾として使いたくなる。つまり、つつましく機能があればいい。

例えばリモコンのボタンは慎ましくなく、騒がしい。ボタンは出っ張っているので主張が激しいことを考えると、機能の慎ましさということを考えたほうがいいのかもしれない。慎ましくないというのは、いわゆる自分が何か出来るということを全面に主張することで、そうでないほうが良い。


ランダムに挙がってくると、その文章を手直しするので良いかもしれない


ブログだと、恰もその文章を確定したかのように書かなければいけないけれど、こういう風にランダムに挙がってきて、さらに「そうだなー、ここはもうちょっと書きようがあるんじゃないかな」と言う風に書き足していくと、割と段々と育てている感じがしてよい。盆栽というか、育てゲーみたいな印象になる。

だから、最初の一行だけ書いておいて、あとでランダムに浮かび上がってくるものをちょこちょこと継ぎ足して、気が向いたらブログにし直す、みたいな運用はありかもしれない(こういう感じで)。


感情をすぐに吐き出してしまうこと

俺なんかもそうだけれど、感情をすぐに吐き出してしまうのは良くない気がした。感情がすぐに出てしまうインターネットにおいて、割と溜めておいて、あとで吐き出すみたいなことが重要なんじゃないかと思ったりした。つまり遅延性だ。

確かに、感情は溜めておくと良くないという部分はあるのだけれど、とはいえその感情を