Zanmemo

by esehara

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いい言語が必ずしも好きな言語であるとは限らない


考えてみれば、前提として「いい言語」が「好きな言語」みたいな風潮があるけれども、決してそういうことでない感じもする。

好きな言語

良い言語


一つの仮説としては、良い言語と思わせる部分としては一貫性があるということに尽きると思う。例えばRubyは基本的にはオブジェクト指向を崩そうとしない部分がある。それは同じようなスクリプト言語であるところのPythonと比較すればわかりやすい。Pythonの場合、どうしても突貫的なオブジェクト指向という側面は避けられない。


場合によっては、一貫性があることと簡潔であるかということはまた別問題のような気がする。本来、一貫性があるということは、ルールができるだけ一意に決まるため、簡潔になる側面がある筈なのだが、どうもそうではない部分も多い気がする。


Random Pickup

必要にならないと、スキルを磨かないという話について

Rails 4 が CoffeeScriptを採用しているため、なんとなーく食わず嫌いしていたCoffeeScriptを書いていたりする。

こういうのを考えると、人間は必要なときにしかスキルを磨かないというのを実感しつつあり、laisoが就活日記の中で書いていた以下の文章が実感として身に染みるのであった。納豆を始めて食べた人も、きっと似たようなものだったと思う。

「死亡リスクが高まるとプログラミングが身に付く」


本当の意味でのプログラミング初心者がつまづきやすいところってなんだろう


代表的なやつだと、次のようになるかもしれない。

みたいな、それこそ当たり前の前提になっているところから説明したほうがいい可能性が高い。あたかもそれって馬鹿にしているかもしれないけれど、そういうことのほうが大切な気がする。


受動的攻撃性

この言葉を知ったのは割と前なんだけど、自分に当てはまるので、あまりにもドキッとしてしまい、以降結構気をつけている。Wikipediaの項目を見ると下のような感じである。

いやなこと、やりたくないことに対して、「いやだ」「やりたくない」と言うかわりに、わざとゆっくりやったり、忘れたふりをしたり、いわば後ろに引くことで反抗する。不機嫌な気持ちになると受け身的なやりかたで攻撃感情を表現し、あてつけや抵抗を示すために、対人関係に広く支障をきたしてしまう


自己診断的に

要するにはっきりと「否定」とか「嫌悪」を表明するのが苦手で、それ故に、それを「曲がりくねった形」で表明してしまう。


未来予測について

1999年に発行されたと思わしき本である『ユーザビリティエンジニアリング言論』を読んでいて、面白いなと思ったのは、その中に「将来的にはコンピューターはこういう風になるだろう」と予言した部分だ。そこには、プログラミング言語は「ビジュアル言語」になると言われているけれど、そういう風にはならなかった。

未来予測を振り返るのが好きなのは、自分が重箱の隅をいじりたくなるような、「いじわるな性格」であることを認めつつも、ある部分において、僕達がこうなるだろうという「直感性」の問題と、実際に必要であったもののズレを如実に感じるからだ。「ビジュアル言語になる」という部分にしても、恐らく直感的にはそうなるのが面白いんだろうなと思うのだけれど、しかし、プログラムを組むということと、図形を描くということには、確かなズレがある。

例えば当時の「ヴァーチャルリアリティ」の本を見て、例えばチャットアプリにおける仮想空間であったりとか、あるいはヴァーチャル美術館とか、そういうアイデアが沢山出てきていて、そういう「身体性」が重視されるだろう、と言われていたけれど、現状として支配し続けているのは、どちらかといえば「テキストベース」な、もう少し言うと「身体」とは別の離れたものであることは間違いない。

そのズレはとても面白くて、今でも自分の課題の一部である。

蛇足

ちょっとだけ補足すると、"Oculus Rift"は割と身体性というか「拡張現実」に近いものではないか、とは思えるんだけど、では実際のところどうなのか、みたいなところに関しては自信が無い感じだ。


縁切寺と2014年頃のインターネット


無縁・公界・楽』を読んでていたら、「縁切寺」と「無縁」について書かれていて結構面白かった。

中世頃の日本では、離婚権が女性には無かったため、暴力的な男性から逃れるためには、そういった「縁切寺」と呼ばれるところに行くしかなかったとかかれている。


詳細はどうでもよくて、必要なのは「縁切寺」というのは、そもそも「縁が切れないこと(=繋がりを執拗に求めてくること)」に発端があるというところが、多分ポイントなんだと思う。妻を追ってくる男のことを想像すればわかる。

それはインターネットにも同じことが言えるよなーとか考えたりしていた。過去のことを掘り起こされたり、あるいは、執拗に「ソーシャル」を求めてくる中で、縁切寺みたいなのが必要なのかもしれないなーと思うと、それがMixiであったり、あるいはFacebookだったりするんだろう。

とはいえ、MixiやFacebookは囲いこみつつ、内部で繋がり合わせようとしているという点では、ある意味で「縁」が違うだけで(この本だと「公界」と呼ばれるものだと思う)、いわゆる「縁切」とは違う。


いま、他の先進国ではインターネットにおいて「忘れられる権利」という話もされているけれど、そういうものに近いものかもしれない。


たぶん、本来的にそういう「縁切寺」的なインターネットも必要なのだと思うが、人々は寂しがり屋なので、縁を切ったら切ったで、アマテラスのように、岩陰から出てきてしまうわけで、そう簡単にもいかないよなーとか考えたりしていた。(その一つの解答としてPathがあるんだろうけど)


自分で使うと改善がはかどる一方で、ソースが目に付かなくなる

なんとか毎日、思いつくところであったり、目につくところを考えながらアップデートしている。

自分で使うと改善が進むのでいいのだけれど、とはいえ従来の怠け癖のためか、じゃあリファクタリングしようか、とかそういう部分に関しては「動いているからいいじゃないの」という感じになってしまうのは良くない気がしている。

そういうことを考えると、そもそもリファクタリングという行動自体が、何らかの強いモチベーションとなっているのだな、ということに気がつかされる。人間は、元々ブロックをAからBに動かすのも面倒くさいという場合もあるのだと思う。

汚さと未熟さ

基本的に、汚く書くのは簡単だ。それは「速さの面」からも言えるけれども、「未熟さの面」からも言えるような気がしている。例えば、自分はRails 4で始めてCoffeeScriptに触った。

もちろん、CoffeeScriptの熟練度なんて無しに近いわけだから、当然のことながら汚い感じになってしまっている。もちろん、CoffeeScriptなんてそんなに書いていないわけだから、汚いということがどういうことなのか、という問題があるが、「たぶんこういう筈じゃないんだよな」というのは、直感として解る。

別段、綺麗に書けというわけではなく、「そこそこに見られるコードを書く」というのは、熟練度の問題でもあるなあということに気がつかされた。そもそも、熟練したら「読めなくはないコード」は書けても、汚いコードは書けなくなる。料理人のまかないがそこそこおいしいのと一緒で、「なんかこんな筈じゃない」と思ったら、少し見直す必要があるのかもしれない。