Zanmemo

by esehara

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いい言語が必ずしも好きな言語であるとは限らない


考えてみれば、前提として「いい言語」が「好きな言語」みたいな風潮があるけれども、決してそういうことでない感じもする。

好きな言語

良い言語


一つの仮説としては、良い言語と思わせる部分としては一貫性があるということに尽きると思う。例えばRubyは基本的にはオブジェクト指向を崩そうとしない部分がある。それは同じようなスクリプト言語であるところのPythonと比較すればわかりやすい。Pythonの場合、どうしても突貫的なオブジェクト指向という側面は避けられない。


場合によっては、一貫性があることと簡潔であるかということはまた別問題のような気がする。本来、一貫性があるということは、ルールができるだけ一意に決まるため、簡潔になる側面がある筈なのだが、どうもそうではない部分も多い気がする。


Random Pickup

参加者前提が、大規模になると必然的に「消費者」と「運営者」に分かれてしまうという現象

厳密に考えないと正直難しいかもしれないけれど、例えばコミックマーケットにしろ、あるいはインターネットにしろ、オープンソースにしろ、あと身じかなところだとKickStarterがある。

その当初は単純なる「善意の参加者」を中心とした相互運用的なものであるように感じるのだけれど、だんだんとそれらが大規模化するにしたがって「消費者」と「運用者」に分かれてしまうのは何だろうなーと考えている。

たぶん、この現象を一番明確に現しやすいのはフリーライダーというのが、言葉としては正しい気がするんだが、フリーライダーというと問題の焦点がズレていて、いわば参加者としてのコミットレイアーが違う、といったほうが正しいだろう。


縁切寺と2014年頃のインターネット


無縁・公界・楽』を読んでていたら、「縁切寺」と「無縁」について書かれていて結構面白かった。

中世頃の日本では、離婚権が女性には無かったため、暴力的な男性から逃れるためには、そういった「縁切寺」と呼ばれるところに行くしかなかったとかかれている。


詳細はどうでもよくて、必要なのは「縁切寺」というのは、そもそも「縁が切れないこと(=繋がりを執拗に求めてくること)」に発端があるというところが、多分ポイントなんだと思う。妻を追ってくる男のことを想像すればわかる。

それはインターネットにも同じことが言えるよなーとか考えたりしていた。過去のことを掘り起こされたり、あるいは、執拗に「ソーシャル」を求めてくる中で、縁切寺みたいなのが必要なのかもしれないなーと思うと、それがMixiであったり、あるいはFacebookだったりするんだろう。

とはいえ、MixiやFacebookは囲いこみつつ、内部で繋がり合わせようとしているという点では、ある意味で「縁」が違うだけで(この本だと「公界」と呼ばれるものだと思う)、いわゆる「縁切」とは違う。


いま、他の先進国ではインターネットにおいて「忘れられる権利」という話もされているけれど、そういうものに近いものかもしれない。


たぶん、本来的にそういう「縁切寺」的なインターネットも必要なのだと思うが、人々は寂しがり屋なので、縁を切ったら切ったで、アマテラスのように、岩陰から出てきてしまうわけで、そう簡単にもいかないよなーとか考えたりしていた。(その一つの解答としてPathがあるんだろうけど)


ランダムに挙がってくると、その文章を手直しするので良いかもしれない


ブログだと、恰もその文章を確定したかのように書かなければいけないけれど、こういう風にランダムに挙がってきて、さらに「そうだなー、ここはもうちょっと書きようがあるんじゃないかな」と言う風に書き足していくと、割と段々と育てている感じがしてよい。盆栽というか、育てゲーみたいな印象になる。

だから、最初の一行だけ書いておいて、あとでランダムに浮かび上がってくるものをちょこちょこと継ぎ足して、気が向いたらブログにし直す、みたいな運用はありかもしれない(こういう感じで)。


感情をすぐに吐き出してしまうこと

俺なんかもそうだけれど、感情をすぐに吐き出してしまうのは良くない気がした。感情がすぐに出てしまうインターネットにおいて、割と溜めておいて、あとで吐き出すみたいなことが重要なんじゃないかと思ったりした。つまり遅延性だ。

確かに、感情は溜めておくと良くないという部分はあるのだけれど、とはいえその感情を


本当の意味でのプログラミング初心者がつまづきやすいところってなんだろう


代表的なやつだと、次のようになるかもしれない。

みたいな、それこそ当たり前の前提になっているところから説明したほうがいい可能性が高い。あたかもそれって馬鹿にしているかもしれないけれど、そういうことのほうが大切な気がする。


苛立ちを鎮める方法について考える。


その仕事にとって「優秀な人」というのはなんだろう

優れたエンジニアを採用できないワケ」を読んでいて、少々冷汗を書いたりしていた。以下はその理由だ。

傲慢さやだらしなさ、細かいことに対する注意力の欠如などは、すぐに目に付きます。それらに気付いた場合、採用は見送ったほうが賢明でしょう。

ここはモロに当てはまるのだけれど、同様に、「優秀さ」ということについて、深く考えさせられる。技術者にとって「優秀さ」といった場合、「技術的な解決方法に長けている人」であったり、「チームで開発する上において、足並み揃えて仕事が出来る」であったり、あるいは「その物事に対して深く精通している」という意味であるかもしれない。これら三つについて、どれに焦点を絞るのか、ということについて混乱がある気がする。

上の記事は、「自分たちが欲しい人材」、つまり「僕達にとって優秀さということはこういうことですよ」という意味での価値だと思うし、それを提示するのは正しい一方で、多くの人々にとって、そもそも「自分たちにとって優秀なエンジニアとはなにか」ということを具体化せずに「優秀さ」という曖昧な概念を考えているというのがアレなのかもしれないな、とは思う。

とはいえ

何度も面接を落ちている自分がこういうことを書くのは滑稽なのかもしれない。